大島 幸治(評論家)
1954年 東京生まれ
慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
英国思想史・社会史専攻。
スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学研究、ファッション文化社会論、身体論、現代思想、現代アートなどを対象とする。
15世紀絵画から「現代」を問い直す長谷川健司
長谷川健司展「『描かれた顔』を描く」(銀座永井画廊2021年5月7日~21日)を見た。15世紀中頃から16世紀前半のヤン・ファン・アイクやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェッリ等の名作にある顔を現代人である長谷川健司が描いたらどのようになるかという、オリジナルと長谷川作品を対比して展示するという挑戦的かつ冒険的なものである。展示空間を設計する画廊オーナー、永井龍之介氏は、いつも絶妙な照明によって企画展示の意図と作品解釈、評価を明確に示す人だが、今回の照明の当て方は、この展示が長谷川氏による「模写」の鮮やかな手並みを見せつけるものではなく、オリジナルと対等なオリジナル作品とのぶつかりあいだということを明瞭に示すものであった。
なるほど、これらの作品は「模写」などではない。むしろ、そこから非常に遠いものである。「模写」なら、オリジナルに近づけよう、写し取ろうとして、過度に「らしさ」を強調しようとする傾向があるものだ。ちょうど演芸の声帯模写、モノマネがオリジナルの特徴を強調するのと同じである。それなら長谷川健司の作品が、オリジナルと近くないのかと言えば、彼の筆の冴えは、こういう人が意図して贋作を作ったら怖いだろうなというほどのレベルである。オリジナルの写真レプリカかと見紛うばかりの精密さを見せながら、それでもどこか根本的なところで差異と距離を感じさせるものがある。
これらは「それらしく写そう」という意図に基づいたものではなく、あたかもオリジナルの作者を自分に憑依させて、彼らがこの現代で同じ作品を描いたら、一体、どのように描くかを実験してみたかのようにすら見える。15世紀中頃の人間は、現代人の「顔」に何を見出すのだろうか。ここにはオリジナル作者が現代人となったモデルを精巧な筆捌きで描きだすのに手を貸す長谷川健司と、それを客観的かつ冷静に見守っている長谷川健司とが同時併存している。むしろ分析者としての冷徹な目が冴えわたっている。
これほどのレベルの模写が制作できたら、記録として保存しておきたかったことだろう。実際、あまりにも有名なモナリザへのオマージュ作品に目を向けると、無数の画家たちが模写してきたこの作品にあえて挑戦し、長谷川健司の画家としての集大成を示す勢いの驚くほどの精妙さでそれを実現している。そうしておきながら彼は、そこにオリジナルとの500年の距離感を測るかのように、模写した上に一枚のベールを被せたのである。この勇気と決断たるや、鬼気迫るものがある。さらに、その薄いベールの上にガラスの花瓶に入った青いバラを描きこんだ。半透明なベールを背景にしてガラスの質感や水の描写のリアリティーを表出させたのはまさしく超絶技巧というべきだが、そこに青いバラという、実在しない花を描きこむことで記号的にこれは意識の上での距離感、時間的距離感なのだと示すのである。このリアルでありながら、陽炎のような表現はなんたることか。
この作品をダ・ヴィンチ自身が見たらどう思うだろう。私たちの焦点は、手前の静物、白の薄いベール静物、モナリザ像、背景と4段階にフォーカスされる。静物やベールの向こうにあるモナリザを凝視しようとすると、口元の肉感や柔らかな謎の微笑の表現が、オリジナル以上とさえ感じられるほどリアルに迫ってくる。絵の前の私たちが見ようとする意志が強い分、モナリザ像との関係性が強まるからかもしれない。そして、その背景の型式に目を転じると、絵が切り取った範囲以上に左右、そして奥へと広がりを感じるのだ。これはコンマ何mmのレベルでフォーカスできる精密光学機械を経験している現代だからこそ可能となった表現だろう。この絵の前で唸るダ・ヴィンチの姿を想像せずにはいられない。この15世紀中頃という時代と現代との対比は、オリジナル同士のぶつかり合い、ひとつの思想上の実験、事件として評価すべきだろう。
あえて言及しておけば、500年以上の年月を隔てて見えてくるのは、「近代」という時代がもたらした人間の「心性」自体の変化だろう。展示のテーマが「顔」であるように、オリジナルの15世紀中頃の人物は、やはりその時代の顔をしているのだ。そこには近代以前という時代の野蛮さ、血なまぐさ、冷酷さ、そして一途な信仰心や純粋さ…、それらが反映されている。ルネッサンスや宗教改革、テクノロジーの進歩と大航海時代が始まる前、すなわち、まだ近代的国民国家Nation Stateが形成される前の時代であった。人々は、14世紀のペスト禍や繰り返し襲いくるパンデミック、中世封建制度の崩壊といった混乱と困難を経験し、戦乱が続く中、各地に王国、公国、侯国、伯領が林立していた世界でしたたかに生きていた。フィレンツェやブリュージュといった商業都市が繁栄する中、人々は独立不羈の精神を持ち、傲岸不遜で策謀に長ける一方で、やがて宗教改革を生み出すジョン・ウィクリフのロラード主義の広がりも見たキリスト教原理主義的な宗教性も心に秘めていた。
これほど時代を隔てなくても、例えば、幕末の土方歳三の写真などを見ればわかるだろう。新撰組で死闘を繰り広げた彼は、実際に人を斬ったのだなという顔をしている。外国から侵略される危機感、硬直した官僚システムの対応の遅さとまずさ、閉塞感…、やむにやまれぬ救国の熱情、真剣で一途な思いが剣を抜いての死闘も辞さず突き進んだのだろう。そうした理非を越えた純情が「顔」に現れている。
展示にあるオリジナル作品のレプリカからも、末期スコラ哲学が示す緻密な論理力の極限、理性への信頼がある一方で、魔女裁判も辞さない信仰への傾斜、秩序への憧憬…そういう時代の過剰な情報が見て取れる。それと比べると、長谷川が描いた人物はずっと洗練されて理性的、上品である。これほど精巧精密に写しているのに、どこか人間性自体の「薄味さ」が現れている。他者に対する冷淡さ、「それもあるだろう」と容認しながら距離を置く文化的相対主義という名の無関心さ。オリジナルの作者が現代人であるモデルの肖像を描いたなら、きっと描いたに違いないものが表出していると感じた。
ここにあるのは、ルネッサンス以降、「近代化」の歴史がもたらしたプラス面の反映であろう。理性主義、科学的思考とテクノロジーの進歩、合理性と効率化、工業生産による豊かな消費生活、政治的な民主化と共和主義、それに伴う人間性の洗練化、野蛮からの脱却、シヴィック・ヒューマニズム…である。同時に、工業化の下で進行した規格化・画一化・平均化という合理性と効率重視が、「どうせ人間なんてみな同じようなもの」といったニヒリスティックな人間観を生み出している点も反映されている。個人の自己決定と自律に重きを置き、「人それぞれ」を過度に揚言しきれいごとを並べながら、相対主義に隠れて他者に対して実は無関心・無慈悲なのだ。主意主義的リベラリズムの毒の部分が長谷川が描く人物の表情から読み取れるように思うし、また読み込もうとしている自分を見出す。
ルネッサンス前夜の人々が心に抱いていた心性、たとえばキリストを長とする神の王国の魂の指導には服しても、世俗の権力による理不尽な上からの支配には負けないという、かつての独立不羈な精神と傲岸さが、自然を支配し利用し、管理するものと考える人間中心主義の傲慢さへと転化してしまった。長谷川健司が描き出す現代的な顔には、より洗練され上品となり、理性的で冷淡な表情の背後にあるもの…、すなわち「近代」という大きな流れの中で人類が得たもの、失ったものが顕現している。
付言しておきたいのは、日本人である彼が描く「顔」が、西欧的な近代の歩みと日本的なものとの対比ではなく、もっと普遍的なレベルの前近代vs現代という対比になっている点の興味深さである。日本人が模写したのだと感じさせる要素が微塵もない。このあたりを考えると、私たち日本人が西洋化あるいは普遍化したのかもしれないし、なにか今という「時代」が長谷川健司の手を借りて人類への普遍的な啓示をもたらそうとしているようにも思ってしまう。
彼のような鋭敏な芸術家の感性は、人類に与えられた時代変化の予兆をとらえるアンテナなのだと思う。このような作品展示については、美術分野の人たちだけではなく、哲学者、社会科学者、科学史の研究者を交えて、いろいろ論じてみる必要があるだろう。
大島幸治 (思想史研究者)