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作 家

高木 公史

大島 幸治(評論家)

1954年 東京生まれ
慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
英国思想史・社会史専攻。
スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学研究、ファッション文化社会論、身体論、現代思想、現代アートなどを対象とする。

銀座永井画廊で高木公史の作品展を見た。30余年にわたってドイツ、スペインで活躍してきた細密描写の写実絵画の俊英である。日本では2017年に永井画廊で実質的デビューを飾って注目を浴びた作家であるが、2年ぶりの個展である。

作品を観て驚いた。人は「写真のようにリアル」と言うけれど、作品を観た私は、光学機械が外界を写し取るということと、人間の視覚が見るもの、対象の認識のあり方との違いの大きさを逆に見せつけられた思いがしたからだ。「ここに提示されているのは人間の視覚認識というもの、もっと言えば日本的な物の見方である」ということである。私は、高木公史の作品を観て感じた衝撃について論じずにはいられない。

すでに知られているように、高木公史は、人物を描写すれば後れ毛、ほつれ毛一本の質感さえ精密に表現する作家である。それはたとえて言えば、熟練した美容師が見れば毛髪表面のキューティクルの痛み加減、モデルの洗髪習慣の問題点まで指摘するだろうというほどのレベルである。また装身具の金属の質感の描写力は、それが純金なのか金メッキなのか、あるいは銅製なのかさえ判別がつくほどだろう。高木公史は、この超絶技巧の筆捌きの冴えによって既に知名度を得たスーパーリアリズムの作家であるから、今さらその描写力のインパクトの強烈さについて多言を弄するのも馬鹿馬鹿しい。「一度作品を観てくれ。そうすれば凄さがわかる」と言えば十分である。「完璧な超絶技巧」というのを表現するのにクラシック音楽ファン相手なら、かつてマウリツィオ・ポリーニがショパンのエチュードの完璧な演奏で示したインパクトと同じようなものだと書いてしまえばいいだろうが、高木公史にはポリーニと大きく隔てる顕著な特質がある。私は、それこそを書かねばならない。

カメラのような光学機械にはフォーカスという問題がある。露出時間や絞り具合によって被写体深度が明確に設定される。つまり何がテーマで、どこまでが背景であるかといった構成がハッキリ決まっている。だからこの設計図があいまいで弛緩したものなら、撮影者の技量の低さとして露わになる。これに対して人間の視覚認識は、眼球というレンズを通して網膜に映る映像がそのままとらえられたものではない。そのプロセスの途中までは光学機械であるけれど、網膜に写した二次元画像情報を神経細胞がバラバラに収集して、脳内で構築されたバーチャル・リアリティーが眼前の映像である。脳が凄いのはゲシュタルトを構築することだ。自分が動けば、揺れる視覚情報を分析して、自分の外界に安定して存在している動かない世界の中を「自分が動いていると認識する。網膜上で大きくなる画像は、対象自体が大きくなっているのではなく、こちらに近づいてきているのだと認識する。つまり私たちは脳で見ている。そして脳がこの「世界」というものを作り上げているのである。

もちろん高木公史の作品には、カメラで撮影したように被写体深度を浅くして背景をぼやけさせた描写をしているものもある。ところが彼の背景のぼやけ方は、むしろ彼の脳がどのように外界、世界を認識するかを示しているのだ。高木公史の描き出すリアリティーは、彼が細密に描写すればするほど、リアリティーの実在ではなく、脳がとらえたゲシュタルト、つまり仮想の世界認識であるということだ。リアルに描けば描くほどシュールなものになっていく。私は「高木公史はシュールレアリストだ」などと言いたいのではない。

つまりこういうことである。私たちの視覚システムでは、網膜背後で神経の束と接続している部分に「盲点」がある。しかし、私たちが見る世界には穴が開いてなく、盲点はしっかり補正されている。また目の前の人物のことを「存在していないと催眠術で暗示をかけられた場合、実在する人物が実際にはさえぎっている向こう側の映像を、脳が勝手に補正してそれらしく埋めてしまう。これは、脳が対象世界を「こうなんだ」と認識しているからである。高木公史が描くぼやけた背景は、それでも背後に何が映っているのか推測できる。これは描いている彼自身が、その認識を持っているからだ。つまり高木が描く写真のような精密かつ細密な表現は、まさしく彼の脳の世界認識を反映しており、細部に至っても対象が何であるかの認識、理解が徹底しているのだ。ミリ単位におよぶ髪の毛一本の、この部分の状況というものですら、彼の認識と了解で埋め尽くされている。この異常なほどの情報の過多こそ、高木公史の表現と写真を分かつものであろう。

本来、人間の世界認識、構築されたゲシュタルトは精密をきわめたものであり、床に置いたビー玉がゆっくり転がることでわかるほどの水平面の傾きでも、長時間いると体調が悪くなるというほど精度を持つという。高木の細密描写は、この人間の世界認識の精度を反映している。そのことで逆に、この眼前の世界は、結局は自分の脳がどのように世界を認識するかを示しているのであって、実際に外部世界がそのようであるのか、いや、外部に世界といったものが実在するのかさえ保証してくれるものではないということを高木公史は描き出してしまうのである。

今回の永井画廊の個展では、よく知られる人物像ではなく、水に浮いた切り花など、いわば静物の作品となっている。例によって彼の描写力は、水に浮かべた切り花(池の底から生えていて茎を伸ばし水面に顔を出して花を咲かせているのではない!)が、時間の経過と共に水が浸みて組織が傷んで…専門の花屋なら経過時間も推測できそうなリアリティーを示している。

彼の筆捌きは、愛する女性の肌の質感を描くかのように花弁の0.1mmレベルの厚み、質感をも描き出そうとする。視覚刺激がとらえる感覚を反映しているという意味でsensualなのであるが、それは同時に「官能的」という意味でのsensualであるはずだろう。しかし彼の表現がわずかな淫靡さもなく気品を保っているのは、彼が対象を見ている見方にこそ、その理由があると思う。

天台密教では「山川草木悉皆有仏性」と唱え、万物は宇宙を成り立たせている原理そのものである大日如来の「種」を宿しており、突き詰めると同じものであるとする。高木は、フォーカスが合っていない向こう側の花びらを描きながら、それが花弁であることを認識していて、それとしてぼやけたように描く。つまり、人間を描こうが、髪の毛の一本であろうが金属であろうが、それが花弁であろうが、同じ重要度で宇宙の原理を宿した実在であるかのように描くのだ。彼は、30数年間、毎日、すべての対象を同じ重要度で細密に描き続けるということを行いながら、その先の突き抜けた世界認識に至ったのではないだろうか。目の前の世界は、私の脳がこのように世界を認識するということを反映したものにすぎず、その意味で実在を写したものでもなく、まして世界が実在していることを保証するものではない。だからといって眼前の世界は、実体のない空虚なもの、嘘だというニヒリスティックな見方を彼はせず、自分が見ている世界の確かさを逐一なぞるかのように再生してみせるのである。

これこそが高木公史を、現代スペインの細密写実絵画などの表現と決定的に分かつものではないだろうか。神が創造した世界だから善性を持っているはず…といった対象との間にワン・クッション入るキリスト教的視点ではなく、絵筆を運ぶすべてに同じフォルテを込めてゲシュタルトを写し取ろうとし続ける彼は、「山川草木悉皆有仏性」という確信によって、描く対象に気品を与えているのである。これが彼の筆致に温かみと生命の躍動感を与えている。同じく精密さを誇りながら、コンピュータで再生したように冷たく静止した響きに私には聞こえてしまうポリーニの演奏と異なるのもこの点なのだろう。

画廊のオーナー、永井龍之介氏は私の前で「切れば血が出るような絵、高木さんの絵は生きています」と熱く語ったが、私なりにこのように了解して永井氏と握手したい気持ちになった。

大島幸治 (思想史研究者)

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