Artist

作 家

尾形 純

大島 幸治(評論家)

1954年 東京生まれ
慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
英国思想史・社会史専攻。
スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学研究、ファッション文化社会論、身体論、現代思想、現代アートなどを対象とする。

銀座永井画廊で、尾形純の作品展を見た。作家本人は、日本庭園の四季折々の色彩や空気感にインスパイアされた旨、カタログで語っていたが、私の眼が釘付けとなったのは、一枚の大作が仕掛けてきた「幻視」だった。なるほど尾形本人は「空気、そして重力、表面張力…」といった言葉をもどかしげに連ねているが、そうした言葉では言い表せない「陽炎」のような微かな空気の流れ、ゆらぎ…それをこの作品は仕掛けてくる。驚いた私は、近寄って画面のマチエールを凝視し、描きこまれた白いフォルムの筆さばきを観察し、そして息を整えてもう一度見直したのだった。

この一枚は、1315mm×1945mmもの巨大なカンバスにアクリルで描かれた「紫」をテーマとした力作、題名「雷流仮山」である。画面のほとんどを均一な紫色が占めるという大胆な構成。極端に抽象的な印象を受ける画面に、右上と左下に何かのフォルムが配置されている。最初その前に立った時には、老練な抽象画家によるコンポジションなのかなとさえ思った。

振り返って展示作品を見回すと、並べられた作品全体がキャンバスにアクリルという技法なのに、どこか日本画的な落ち着いた色彩で描かれ、狂暴で挑戦的な色彩で見る者を挑発するということがない。「抽象画面なのにちょっとおとなしいなぁ」と思ってしまった。しかし、振り返って「雷流仮山」を見直すと画面の紫にフワフワと陽炎が立ち上ったのである。「えっ…」と驚いて、これは、外界のリアリティーの解像度を変えることで、その存在の本質や作家が見出した違和感を表現しようとする抽象絵画とは別次元の作品なのだと了解して見直した。

息を整えて画面の前に立つ。じっと見つめていると、やはり陽炎が立つ。私の視線は、右上にあるフォルムに引き寄せられるが、同時に、左下の微かな影とを素早く往復する。するとキャンバスのほとんどを占める紫色の画面の前の空気が動くような気がするのだ。

右上の白いフォルムは、近づいてみると下地の上に薄く乗せるようにして、しかもナイフで表面の反射が強く仕上げられている。しかし離れて見ると、下地の上に乗っているのではなく、むしろ塗り残し部分が自己主張しているかのように、下から浮き上がってくる印象なのだ。この描き方がこのフォルムの存在感と引力の強さなのだろう。その引力が強い分、反対の左下の暗い影のようなフォルムが気になる。見る者は、尾形の仕掛けに導かれて視線の運動を強いられることになる。

子細に画面を見てみると鳥肌が立った。そのマチエールは、気が遠くなるような丹念さで、わずかな破綻もなくビロードのような、しかし光を吸収する艶消しの状態に仕上げられている。この大画面を精密かつ正確な筆捌きで埋め尽くす作家の執念のようなものを感じて涙が出そうになった。この均一さが視線の動きを遮らないために、視線の錯綜によって陽炎が立ち上るのである。言ってみれば尾形純の情念が空気を揺らめかすのだ。

そうだ、画面上のフォルムから記憶を呼び覚ますような記号性とか象徴性を読み取るのをやめよう、作家が導くまま虚心に視線を画面上に泳がしてみよう。これは何かのリアリティーを写し取ったものではなく、まさしく尾形が言う「空気感」、空気の流れを現出させる表現なのだ。

私自身の好みから言えば、そもそも紫色の色合いにはうるさい。並べられた作品全般からして、なにか実際の日本庭園の画像解析率を低下させたような、背後にリアリティーがあるような色合いである。その分、こちらも冷静な距離感を保てた感じがする。もしこれが、もっと透明感がある、私好みの色彩で描かれていたとした、私の魂は画面に吸い込まれて、どうにかなってしまうのじゃないか。そら恐ろしい気がして背中に戦慄が走る。

静止した二次元の画面上で、ゆらゆらと空気を動かして見せようとは、なんとも不思議な抽象性に挑戦する作家がいたものである。

評論家 大島 幸治

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