Artist

作 家

千住 博

大島 幸治(評論家)

1954年 東京生まれ
慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
英国思想史・社会史専攻。
スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学研究、ファッション文化社会論、身体論、現代思想、現代アートなどを対象とする。

銀座永井画廊で、千住博のWaterfall(瀑布)の連作の、それも初期である1995年の作品を見た。噂に聞いていた永井龍之介氏の秘蔵の逸品である。これは、あの滝を描いた作品でも最高傑作と言っていい高い精神性を持った作品だろう。ついに対面できたと思うと、感慨無量となるのも仕方がない。和紙に岩絵の具で描かれた100号もの作品の迫力たるや、まさに圧倒的なものがある。

この一連の「Waterfall」作品については、多くの人が多くのことを語ってきた。今さら私が解説めいたことを書き連ねるといった愚行はするまい。ただこの作品は別格であるから、作品を前にした瞬間に私の頭に去来した個人的な体験を吐き出してみよう。千住の作品群でも、この一枚は私の肺腑をえぐる衝撃をもたらした。このような作品は、次にまた前に立って眺めたら、まったく違う思索を延々ともたらしてくれるだろうし、他の人には別の内容を語りかけるのだろうが、轟音を打ち消して無音の静けさにしてしまう理路を鮮烈に体験したのは、まさにこの一枚と対面した瞬間だった。

私が絵を前にして浸っていたのは、那智の滝を思わすザーという瀑布の音である。なぜ那智の滝? もちろんこの絵の宗教性がもたらす連想である。絵画表現としては、実に神聖な雰囲気をたたえた静謐な画面なのに、物理的に静まり返った画廊の無音の環境の中で、観ている私の頭の中には実在していないザーという音が充満する。リアルな映像表現を目にした私の脳は、その記号性に反応して、たしかに滝が落下するザザーという音響を聞いているのである。ところが見ている私の心は、逆にどんどんシーンと静まっていき、なにか深く癒されていく感覚を持つ。こちらに水しぶきと霧となった湿度が降りかかり、霊気のように吹き付けてくる。この脳と心が別の体験をしている不思議な感覚。立っている床からは水が生み出す振動が伝わってくるようにすら感じるというのに。

和紙と岩絵の具で構成された動かない物体でありながら、私の脳は、強烈なエネルギーと運動を見出す。これは壮大な弁証法なのである。

私たちは、水の流れを液体の形相を持った切れ目のない流体として理解しているが、流れは高いところから低いところへ重力9.80665m/s2の加速度をもって落下しながら千切れ、バラバラの水の粒子に還元されている。そして強烈に水面に叩きつけられる。川は切れ目のない「流れ」などではなく、衝突する水の分子の集合体だったのだ。粒子は衝撃で反発し、霧となって天へと上昇していく。天から降った雨が集められ、川の水という形相をなしていたものが、霧という気体の形相をとって天の雲に還っていく、という自然の大きな循環に立ち会うのだ。モノが落下する重力と、天に立ち上ろうとする水の意志のような、相反するベクトルがこの絵の中でせめぎ合っている。

この絵は、川の流れという、不可分の流体による巨大な質料が滝となって落下する、重力そのものを表現しているようでありながら、その分子がぶつかり合い、エネルギーを発し、霧となって重力に逆らって上昇していく姿でもある。重力に反して天に還ろうとする自然の意志のようなものの気配。私が、今この絵の前で感じている飛翔感は、重力に逆らって上昇気流に乗ろうとする、この舞い上がる霧の粒子の軽やかさ、マイナスイオンなのだろう。自然の生命力の霊気が私をも包んで上ろうとする。

同時に、この画面は、脳にこの滝が落下する轟音を求めさせ、心には眼前のリアリティーを超越した静謐へと向かわせるのだ。かつて真言陀羅尼を宇宙の音楽へと続く一片と論じた空海は、『声字実相義』の中の頌で「五大皆有響 十界具言語 六塵悉文字 法身是実相」と謳った。「五大皆有響」、すなわち宇宙を構成する五大要素はみな音響を発していて、それが自然の言語であり文字であり、宇宙の根源的存在である法身大日如来の流出だと覚れと空海は言う。千住博の作品の前であれこれ考えている私たちの思考=言語も、自然界が発している響きの反映ならば、私の脳が絵と同化して轟音を求めるのも道理だろう。宇宙を構成する木火土金水の五大要素は、ことごとく音響を発しているからだ。この脳の中で響いている、実在はしない滝の音の確かさも、宇宙をあまねく満たしている音響・言語・文字の表れなのである。

ところが私の「心」の方は、どんどん静謐の中に沈んでいく。これはどうしたことだろう。近代の神道家、友清歓真は、『霊学筌蹄』で「惟神(カムナガラ)なる自然的規律」として聴覚を取り上げ、「変動のない一定の音響を聴く」という修法で心身が浄化されるということを論じていた。この音霊学は、古代ギリシアのピュタゴラス学派が追い求めた「天体の音楽」と通底するものがあるが、坐法も、呼吸法も普通のまま、ただ姿勢を正しくしながら、宇宙の声を反映している「変動のない一定の音響を聴く」のである。存在しない滝の音に包まれている私がしていることは、まさにこれだろう。雑念妄想のあるがまま、ただ音に聴き入っていると、自然界の音霊は、人間の本性である「直日霊」を清明の境地に誘い、心身回復をもたらすという。

このように見てしまうと、この絵が、まるで宗教画のように見えてくるのだが、私がこの絵に感じている慈愛のような優しさはどこから来るのだろうか。一方で背筋がピシッと引き締り、他方で包み込んで守ってくれるような優しさを感じて、思わず涙ぐみそうにもなる。

この絵の迫力の根源は、むしろ自然界の満ちる音をかき消してくれる、滝の圧倒的な轟音が孕んでいる緊張感にこそあるのだろう。この絵の前に立った私は、「五大皆有響」という一節を思い出すことで、キケロが「スキピオの夢」第10章で論じ、ケプラーを天体の運行法則に導き、ホルストに組曲「惑星」を書かしめた「宇宙音楽」にまで思いを巡らせた。しかし、ふと思った。人間は、天体の音楽、自然が奏でている響き、いや自然の叫び声のようなものを耳にして、一体、空海ならぬ凡人の私はこの生身を守れるのだろうか? たしかムンクが「叫び」という作品で描いたのは、「夕暮れ時に自然が発している恐ろしい叫び声」から身を守ろうと耳を塞ぐ…ということだったな、と思い出してしまった。背中に冷や汗が流れる。たしか空海は『声字実相義』の中の頌で「五大皆有響…」(宇宙を構成する五大要素はみな音響を発している)と静的な響きのように書いていたが、夕暮れ時という逢魔が時に自然を貫く叫びというのは、疲れ切って死と再生の夜の闇に沈もうとする自然であり地球が発する悲鳴なのかもしれない。そんな人間には聞こえるはずがない大自然が発する叫びを、何かの手違いで、ふと聞いてしまったら、人間など身が持つはずもない。だから私も、自然が発する叫びから身を守るために耳を塞がねばならない。

千住博のこの絵を見ていると、滝を包み込む空間は、宵闇が迫りくる、午後遅い時間帯を映し出しているように見えてくる。まさに危険な時間帯だ。では、なぜ静寂なのだろう。ヘッドフォンの機能で、外界の騒音を同じ周波数の逆波形の音を出して打ち消して静寂にしてしまうというのがあるが、この滝のザーッという音が、迫る宵闇に自然が放つ叫び声を遮断し、同じ周波数の打ち消し合う逆の波形の音響を発しているのだろう。この絵が描く滝の実在しない轟音が、まさにこの絵を、この滝を、見つめる者を守ってくれている…そんな妄想に立ち至った。自然が発する叫び声を打ち消してしまう、鏡映しにした轟音を秘めていることで、この絵は超絶的な迫力と存在感を示すのだ。同時に、自然の叫びを打ち消し、無音と化す作用は無限なほどの慈愛の顕れである。この一枚の絵が、超越的な神性の存在を写し取っていると感じるのは、そのあたりから来るのだろう…。いや、いかん妄想が膨らむばかりだ。そろそろこの絵の前から立ち去り、また機会を改めて対話しに来よう。

千住博は、この一枚の傑作において、絵画という無音の表現媒体で滝の轟音を表現し、しかもその轟音が、やはり静寂な無音である理路を開示した。聞こえざる轟音は、自然が発する、人間には聞こえない叫びを遮断し無音化し、見る者を守ってくれている。見る者がこの絵に神聖な存在の気配と慈愛、それと背中合わせに臨在している恐ろしい「力」の気配を感じ取るのはこのためだろう。私は、雑念妄想があるままに、「変動のない一定の音を聞く」という音霊の修法を、知らないままに行じていたのだ。

大自然は、時として千住博のような美術家の腕を借りて自己の秘密の一端を開示するのだろう。そんな風に思わずにはいられない作品だった。

評論家 大島幸治

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