会期
■2023年10月17日(火)―31日(火)
10:00 -18:00 日曜休廊
展覧会に寄せて
大澤雅休・棟方志功・表立雲の出会いには偶然と必然があった。
偶然とは戦争による地方への疎開という流れ。雅休が昭和20年5月に富山県東礪波郡太田村久泉(現砺波市久泉)へ、志功が昭和20年4月に、富山県東礪波郡福光町(現南砺市福光町)へと同じ時期に同じ地方へと疎開してきたこと。情報インフラのまったく整っていない当時の地方に、中央文化最先端の二人が集まったのである。
そして必然は表立雲が好奇心・探求心・実行力・人との出会いを強く求める心を持ち合わせ、その地に存在していたこと。
昭和20年、立雲は雅休が疎開先へのお礼にと開いた「書の講習会」に参加した際に強い衝撃を受け、本格的に書の世界に踏み出し始める。
そしてまた志功が福光町に疎開しているのを知り訪問する。昭和21年、立雲弱冠20歳・志功43歳である。親と子供ぐらいの歳が離れていたが、志功は立雲の才気を感じ取り以後交遊を深め、お互い芸術論・人生観に多大な影響を与える。志功にとって、それまでの書風を大きく変える契機になった。また立雲は、個性の強い雅休と志功を引き合わせた。二人は以後お互いに敬意を払い、合作を楽しむなどし、志功が雅休の書の機関紙「平原」の表紙などを描いたり、雅休の新居の襖・壁などを絵で充満すなど、その交流はまるで兄弟のようであった。
表 義章(表 立雲長男、玄土社代表)
美術と文学と書の邂逅
棟方志功は、書物と全身で付き合った芸術家だった。彼の絵画には、古事記の時代や、仏教経典の難解な世界観に肉迫するたくましい想像力が波打っている。どんな題材を扱っても画面に必ず宿る肉感性は、言語を読み解くに当たって、知性と身体が等しく活発にはたらいていたことを証明している。
棟方は、富山時代に書と劇的な形で出会う。敗 戦直後の前衛書運動をリードした大澤雅休の知遇を得たのである。大澤は、アララギ派の歌人として活躍しながら、39歳で書の本格的な学習に手を染めた異色の経歴の持ち主。文学と造形芸術を架橋することにおいて、類いまれな手腕を発揮した。二人の交友は、全身全霊をかけた共同制作へと発展する。そして、この時代に彼らから感化を受けた表立雲は、富山の地で前衛書の実験を果敢に推進していく。
ここに、美術と書を股に掛けた、三者三様の作品が集う貴重な展示が実現した。
栗本高行(美術評論家)
主旨
地元の若き立雲と戦時疎開していた雅休、志功が出会い交流のなかから、書と絵画という枠を越え、いわば“日本の美”が生まれた富山県福光時代(1945-1952)に焦点をあて、現代書の意義を顕彰します。俳句、和歌、文学に造詣の深い雅休は、文学を表現する方法として書に打ち込み、志功に出会ってからはその“懐包の一抹をもあとに残さぬことを目指す至境”に感銘を受け、力強い魂の書を残されました。
版画とともに魅力ある書も数多く残された志功ですが、立雲の紹介で雅休に出会ったことで“字に命を乗せる”雅休に共鳴し、以来無心な書を書き続けました。
立雲は先輩二人に導かれ、古典に立脚しながら自由な精神、革新的考察から生まれる前衛書を書き、彼らの没後もその遺志を継ぎ、当代を代表する書家として活躍されました。
今回福光時代に残された3人の貴重な書を展覧し、改めて“日本美術の本道としての書”を知って頂きたくご案内します。
永井龍之介
作家プロフィール
(1890-1953)
「書の径の会」集合写真 1950年8月 愛染苑(富山県福光)にて。 前列左から1人おいて中島邑水、大澤雅休、棟方志功、表 立雲(右端)
(1903-1975)
(1926-2021)
大澤雅休「山嶽重畳」
66×64.5㎝ 1953年(S28)頃
※山嶽重畳(さんがくちょうじょう) 山々が幾重にも連なっていること
棟方志功「雨ニモマケズ」
1951年(S26)
表 立雲「長毋相忘」
68×67㎝ 1979年(S54)頃
※長毋相忘(ちょうぶあいわすれず) 長く相忘るなからん
大澤雅休「淵黙雷轟」
12×62㎝ 1952年(S27)
大澤雅休「二人同心其利断金 同心之言其臭如蘭」
135×34㎝ 1951年(S26)
棟方志功「華厳」
1965年(S40)頃
表 立雲「麟鳳亀龍」
34×43.5㎝ 1980年代
表 立雲「千秋万(萬)歳」
137×33.5㎝ 1979年(S54)頃