赤木範陸の作品

評論家 大島幸治

 銀座永井画廊で赤木範陸の作品を見た。溶かした蜜蝋を麻布に染み込ませるエンカウスティークという古代ローマの技法を用いた「蝋燭火の肖像」という一連の作品である。顔料も用いているが、基本的に蜜蝋が持つ、色彩とは言い難い、そこはかとない色合いで、色を使わず色を表現するという独特の表現である。昔のセピア色の白黒テレビの画面を見ながら、私たちは実際には存在していない豊かな色彩を思い浮かべていたものだが、この技法の作品には、そうした「知的な認識」の楽しさがある。私たちの脳が勝手に見てしまう色彩を、添えられた淡い顔料が肯定し、補強してくれる。
 画布に染み込ませることで、表面に筆の跡が残らない。白い画布の上に絵の具を乗せ ましたといった、制作のプロセスを見せつける自己主張の強い絵の具のマチエールというものがない。染み込んだはずの蜜蝋が、逆に、画面の奥から染み出してきて映像を生み出しているようにすら見える。いわば、フィルム写真を印画紙に焼き付け、現像液の中で画像がフワッと現出する瞬間に立ち会うかのような錯覚にとらわれる。
 うす暗く沈んだ画布からにじみ出る茫洋とした淡い色彩は、暗く落ち着いた静謐さそ のもの。ところが、「暗さ」には、いわば菜種油の皿の芯に火を灯した江戸時代の行燈のような微かな光が隠れている。色なき蜜蝋の複雑な光の反射が、淡い色彩と光の気配を生み出し、暗さの中だからこその明かりの気配を生み出すのだ。ちょうど英国コッツウォルズの家々のハニーイエローの壁が、夕日を受けて美しく豊かな色彩を宿すように、蜜蝋の光加減、色彩は繊細で不思議な効果に富んでいる。
 赤木のエンカウスティークによる表現の白眉は、「蝋燭の炎」だろう。かつて画家たちは、さまざまに蝋燭の炎を絵画として表現した。燃える炎の数百度の熱量を画面に現出しようとしたもの、逆に「凍れる炎」かのように「炎の固体感」といった矛盾した表現を試みたものもある。しかし赤木範陸の「蝋燭の炎」は、ホタルの放つ光のように熱量を持たず、化学反応のように淡く、ぼわーっと光るのである。炎として描かれながら熱量を感じさせず、しかし、氷の冷たさや硬度を感じさせるのでもなく、まるで人肌の温もりのようにじんわりとした熱量と微かな光量をたたえている。炎は、実体があるものではなく、光る気体なのだと表現されている。画布に物体である絵具を塗り付けた表現では不可能な表現だろう。蜜蝋が染み込んだことでできる光線の屈折による陰翳だからこそ、画面奥から浮かび上がるのだろう。その明るさは、幽かな振動のように空間に広がり、画面の向こう側からこちらを照らしている。このように眺めると、まるで燃え尽きることがない蝋燭の炎を表現しているかのようにさえ感じられるのだ。
 現代の絵画作品に象徴表現を読み込み、勝手に物語性を見出すのは禁じ手なのだろう が、そのように見ると、作品の中の女性は、燃え尽きることがない愛を象徴する蝋燭の光を手にしている、などと読み取ってしまうことになる。赤木の静物作品となると、この薄暮のような淡い光だからこそ生み出される、オブジェが持つ象徴性の深読み、それが織りなす物語性は、一層の切なさをたたえて、観ていて飽きることがない。日用の品物一つ一つに光が宿る意味を探ってしまうからである。薄暗がりの中の光と、それが織りなす物語性。古代人が好んでこの技法を用いたのも、このあたりに理由があるのだろうか。

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